2019年04月16日

奇跡の人



 時代は明治20年。去場安は、9歳で留学先のアメリカで十分な教育を受け、それを日本で活かすべく帰国したが、親が薦めるのは縁談ばかり。
 喪失感の中、青森の男爵家の娘の教育係の話が舞い込む。名前は介良れん。1歳の時に患った病のため、目は見えず、耳は聞こえず、しゃべれない6歳の少女。彼女は蔵の中の座敷牢に幽閉され、ぼさぼさの髪の毛に薄汚れてはだけた着物を着、目がさめれば隅に放置されている食べ物を手づかみで食べ、糞尿をまきちらし、奇声を上げる。座敷牢から出てくれば、走りまわり壁にぶつかり、手に取るものを破壊する。
 使用人からはもちろん、家族たちからも「けものの子」と呼ばれ、その存在を疎まれている。
 しかし安は、彼女の中の可能性を信じ、その才能を開花させようと決心をする。
 手探りの中、その方法を模索し、まさしく格闘留守日々。その相手は、れんだけではなく、家族や使用人たちとも敵対しながら、それでも着実にれんの才能を開花させるためにつきすすむ。

 ここまで読まれて気づいていらっしゃると思いますが、これはあの有名なヘレン・ケラーとサリバン先生のお話です。描かれている時代も同じですが、舞台が日本の青森県ということです。原田マハ氏が、ヘレン・ケラーのお話をベースにし書き起こしたフィクションです。
 このお話がなぜ多くの人の心を震わせるか、ということを考えていました。
 しゃべれないどころか、目も見えない、耳も聞こえない。こちらの思いを伝えられないのはもちろん、自らの思いも伝えられず、もがき苦しみ暴れまわる姿を目の当たりにすると、ただただ恐れおののき、自己を守る反応をしてしまうのは、致し方ないのかもしれません。
 しかし、それを超えて、他者を意思疎通出た時、人は無上の喜びを感じる、それを追体験できるのが多くの人の心を震わせるのかもしれません。
 そして、なんでわざわざ舞台を日本に、それも青森県に移したのか?という疑問が頭に浮かびます。
 その答えは、この本の巻末の「解説」に解釈が書かれていますので、読んでいただければと思いますが、一言でいうと単なる感動のお話にしたくなかったんじゃないかということです。
 ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話であれば、伝記などを読めばいいわけです。それを明治の青森に移したことで、当時の息苦しいまでの因習からの解放闘争としても読み取れます。
 そおいった重層的な構造が、物語を感動をより深くしていると感じました。
 そして、ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話では登場しない盲目の三味線芸人キワの登場により、さらに物語は味わい深くなります。
 原田マハ、おそるべしです。

☆☆☆☆☆
ラベル:原田マハ
posted by KOZO at 11:27| 静岡 ☀| Comment(0) | 本の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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